呉座勇一 2014 『戦争の日本中世史:「下克上」は本当にあったのか』新潮選書
筆者は、『応仁の乱』などで知られる若手の人です。読み終わったのでメモがわりにまとめました。
(Twitterに書いたものをまとめたものです。)
まず、悪く口になりますが、 ややこしくって、読むのにすごい時間と体力を使います。入門書って感じではないです。私は高校・大学で日本史を専攻していなかったので日本中世史について詳しくありません。あんまり馴染みがないので、本の隙間に、誰と誰が戦って、どうなったかをたくさん書きながら、いつもページを戻して確認しながらでないと、とても読み通せなかったです。
備忘録代わりに面白かった点をまとめました。
1章。
元寇と鎌倉武士。鎌倉武士の奮闘が描かれます。
2章。
悪党がテーマです。だけど、悪党はいろんな期待が入ってしまって、歴史家であってもとらえようが難しいみたいです。 アウトロー集団ということでヒーローにしたてあげたい期待がいつも寄せられるとか。
この章の本当の主人公は、当時の金持ちの「有徳人」でした。 中国からの銅銭の輸入、土地開発の限界、相続法の変化などの要因が組み合わさって、「有徳人」が登場したと書いてありました。
どの時代にも情報を独占するしたたかな人は大もうけするみたいです。
3章。
6章。
足利将軍の功績
足利家の将軍はみんな魅力的です。
【尊氏】→南朝方・旧直義勢と戦い続けるカリスマ武将
【義詮】→京を何度も占拠される。武将としてはイマイチ。でも、当時強かった山名時氏と上杉憲顕を何とか味方にして無理やり内乱終結を達成。
【義満】→成り上がりの土岐氏、山名氏、大内氏を時間をかけて小さくし、将軍家を相対的に強くします。安定の時代へ。
義満の時代。 内乱が終わったので、死ぬ心配もなくなります。戦時中の相続の仕方と紛争解決方法はもちろん変わって行きます。
戦時中は敵方の荘園に侵略したり、自分がされたりして大変でした。戦時中は、ロビンソン=クルーソーが全部ダメになるのを防ぐために火薬を一箇所ではなく、いろんなところに隠したみたいに、武士たちは土地を後取りや兄弟にわけて全滅するのを防いでいました。でももう大丈夫。戦争は終わりました。相続は長子への単独相続へ代わります。紛争解決は実力行使とかではなく、裁判で行うようになりました。
7章。
戦後レジームの終わり。
室町初期の壮絶な戦いが終わり、義詮・義満が頑張って、権力バランスを安定させました。彼らは地方のボスを弱めて、幕府が一番強いけど、みんなで均衡、みたいな状態を作ります。お互い睨みあっているうちは、だれも戦争をしかけず、平和です。でもこの緊張はちょっとずつ壊れていきます。誰かが極端に強くなろうとすると、滅ぼされるのを怖れて戦争をしかける人がでてきてしまいます。
【義持】→鎌倉公方を討ちに行きたいが、有力守護たちは負担が大きいとして望まない。富樫満成、赤松持貞らを起用し、義満みたいにひとりずつ守護を切り崩そうとするも支持を得られず、うまくいかない。
【義教】→足利満直・持氏の抗争、大内討伐に軍事介入したいが、畠山満家らの戦争回避策に阻まれる。畠山満家も亡くなり、うるさいのもいなくなったので、大和と関東で軍事行動をする。その後、一色義貫、土岐持頼を謀殺。将軍家一強体制を作ろうとするも、赤松満祐に暗殺される。
【義政】→伊勢貞親を起用。全国各地で軍事行動を起こし、幕府一強体制を目指す。
Doug McAdam 1988 Freedom Summer.第2章
Doug McAdam 1988 Freedom Summer.Oxford University Press.
第2章 活動家たちの伝記的ルーツ
簡単な要約です。
なぜか翻訳がない。
アメリカ南部の1964年の夏の話です。
舞台はミシシッピ州。猛烈な人種差別が行われていました。
白人たちは黒人(本書でそう呼んでいるので)たちを、多分人間以下だと思っていたのでしょう。有名は歌では、「奇妙な果実」という歌があります。20世紀の前半だと、黒人は白人にちょっかいをだしたりすると、リンチされて木に首吊りにされていたらしい。
南部ミシシッピ州でも、1955年から始まった公民権運動の一環で、黒人解放運動が起こります。当時の黒人たちは選挙権がありません。選挙登録していません。しようと思ってもいなかった。そんなことをしたらどんな扱いをされるのかわかりません。
しかし、平等の原理からいってそれはおかしい!ミシシッピの黒人に選挙権を与えようという運動がおきます。
そして1964年にフリーダムサマーキャンペーンが始まります。(実際は模擬投票になった)
でもそんなことを黒人がやっても、隔離主義者たちにリンチされます。
彼らがいくら殴られても、たいした犯罪にはならないらしいし、ニュースにもならない。
そこで、運動の執行部は、北部の大学生をキャンペーンに連れてこようとします。
イエールとかスタンフォードとかの裕福なエリート大学生が、黒人のために働いているとなれば、ニュースになります。まして彼らが暴行をうければ全米で話題になります。
そして実際に、人種差別に疑問をもった北部の裕福なエリート白人大学生がボランティアとして南部にやってきます。人種隔離主義者の暴力を覚悟しながら。
この危険なキャンペーンにだれが参加したのか?これがMcAdamの問いです。
申請者に共通する点を探すと、何かしらの団体に入っている人がほとんどでした。
教育団体に入っている人は、南部の黒人の子どもの教育に関わりたくて応募します。
宗教団体に入っている人は、福音の実践のために応募します。
政治団体に入っている人は、愛国心の実現のために応募します。
共産主義団体に入っている人は、左派的な動機などから応募します。
さらにMcAdamによると、これらの団体に入っている人は、親もまた団体に入り、ミシシッピにいくことを後押ししてくれます。親、つまり生まれ育った家庭環境が大事ということです。
応募した人たちは、家庭内である程度、人種平等などの教育をされて、社会活動に従事する団体に入っている人でした。
だけど、応募したけど行かなかった人がいます。
そこで、McAdamは応募者の中で行った人と行かなかった人を比較します。
効いた変数は、まずは年齢と性別。これには理由があります。
21歳以下は親の許可が要ります。そのため、参加者は大学院生とかちょっと年配の大学生になりがちでした。そして当時白人女性が黒人男性と接触することはちょっとしたタブーだったので実際には女性は行かないことがあったようです。
そして、McAdamの面白い指摘は、公民権運動に関わっている友人・団体と結びつきの強い人は、プロジェクトに参加しやすいということです。
どこに所属するのか、どんなつながりを持っているのか、というのが、フリーダムサマーへの参加を決めた要因だったのでした。
ロジステック回帰分析と圧倒的なインタビューをしているので、面白いし、説得力があります。ただ、応募者と非応募者の比較をしていない、所属団体による参加者・非参加違いがそんなに強いものなのか、細かい点では疑問もあります。
映画:この世界の片隅に
映画を見ました。3日くらい前に。
『この世界の片隅に』というアニメ映画です。
片渕須直監督作品ということです。
戦争と日常系のほののんとしたものかと思っていましたが、
思いのほかすごい映画でした。
感想を書きます。ネタバレもします。
1回しか見ていないので、登場人物やストーリーは粗い記憶に基づいて書きます。
ぼくは、この映画は、嘘をつく話だと思いました。
主人公のすずさんは、自分で嘘の世界を作って、現実逃避しているんだと思います。
自分を騙して生きようとしているんだと思いました。
どうやって嘘の世界を作るのか?
それは絵と料理に表現されていたと思います。
現実は絵に再解釈されます。例えば、波がウサギになります。
戦闘機がバチバチやっているのは、カラフルな絵になります。
そうやって、現実の殺伐さとかは、絵になって楽しいものになります。
それが絵であれば、戦争だって結婚だって、毎日は楽しいものになります。すずさんは本当は原爆ドームのあれを書いたように精密な写生もできるのに、あえてそうしない。
料理もそうです。
戦時下で何もかも不足しています。
でもすずさんはふかしたり、いろんなものを入れたりして大きくするのです。
すずさんの創作活動は、食卓を豊かにし、幸せにするのでした。
すずさんはつらいことは考えません。空襲中でも、遊郭の中にいても
すずさんは絵にしたり、においを嗅いだりするだけで、現実を見ないのです。
でも、所詮は嘘です。すずさんのつくった想像の世界です。
波はウサギではありません。雑炊は味がないです。
そして、痛みや暴力を前にして、すずさんの虚構はもろく壊れてしまいます。
それを直に暴くのは死です。
姪っ子の死は、嘘にはできません。いないのです。義姉が泣いています。義理姉の涙からすずは逃げられません。
すずさんはもう想像の世界を作れなくなります。すずさんは不発弾で右手を失います。絵が描けなくなるのです。この利き腕がなくなるというのは、すずさんがもう嘘をつけなくなったということを表現しているのだと思います。
そしてすずさんは現実と向き合い絶望します。
広島に帰ろうとしたり、焼夷弾に立ち向かったり、戦闘機と対峙しようとしたり、自暴自棄な行動にでるのでした。
玉音放送ののシーンは印象的です。敗戦を聞いてすずさんは激昂します。
戦争に勝てると信じていたのも、日本軍がついていた嘘です。本当は勝てないことはみんな知っていました。知らないのは、米軍のエンジン馬力を素朴に聞いた姪っこちゃんだけです。
登場人物の中でだれよりも、嘘の世界を信じて生きてきたすずさんは、嘘をつくことをやめた日本軍に我慢がならなかったのです。
そして、実の妹が原爆をうけて白血病になります。
もう死ぬのかしらという妹に、
すずさんは「そんなことがあるわけがない」とまた嘘をつきます。
でも、最後のこの嘘をすずさんはもう信じていないと思います。
もうすずさんの生き方が変わったのは、右手がないことからもわかります。
そういえば、妹の白血病の症状も右手にでていました。妹もまた自らの死を受け入れていたのでしょう。
以上、適当に書いてきました。
人は何かを信じて生きています。それが叶わないとしても、それを信じます。
例えば、末期の病気の患者だって、治ると信じ続けます。
受験だって落ちるとわかっていても、頑張って勉強します。
すずさんのやっていたことは、絶望しないための手段だったのかもしれません。
戦時下でも、想像力を働かして幸せに生きようとする人間の強さとその拠って立つ基盤の弱さ。人間の創造力と脆弱性が見えました。
でも、最初の最後の人攫いはなんだったのでしょうか?
多分、作者たちもどこかで、嘘ではないけど、凄い「何か」が人々を繋げている、みたいな超自然的な存在を否定はしていないんだと思います。